2008年 06月 24日
今も滑走路の跡が・・・・・
今日はその海軍航空基地を調べてみました。
航空基地の地図・・・クリックして見て下さい・・・
最初は大空にあこがれる青少年を育成するためのグライダー訓練場が昭和17年11月に東野畑台地に完成。上野市・津市・松阪市・四日市市・桑名市・宇治山田市・阿山郡の青年学校・国民学校職員40名が指導養成を目標に訓練を行った。
その後、第二次世界大戦の末期・・・今の伊賀市緑ヶ丘町に日本海軍は本土決戦に備え、航空基地の建設に着手した。昭和18年に測量開始・・・・・やがて滑走路や周辺整備の作業に、学生や近隣住民が連日動員されました。
基地は24000坪に及ぶ広大な面積。地域内には21軒の農家があり移転となりました。昭和20年5月には第1001海軍航空隊・福地派遣隊が着任。物資の輸送を行うと共に実践にも参加したようです。
今もこの時の滑走路が生活道路として残っていました。
滑走路は・・・・・・現在の緑ヶ丘中学校、東小学校、安永(株)の線上に作られました。
その長さは・・・・・1200mの直線です。
戦後の伊賀海軍航空基地は・・・・・・・
昭和20年9月1日現在の保育機種・数量は零戦2機、彗星1機、彩雲1機、一式陸攻4機、零式輪1機、九三中練1機、90機練1機、白菊2機、陸軍機3機の16機と記録されています。軍用機は後日・・米軍マイケルウイルソン軍曹らに爆破処分されました。
兵器、弾薬などは大阪や第二鈴鹿基地へ輸送されましたが、金善池や七ツ池へ相当量投棄されたとも記録されてます。
今の池の状態は・・・・・
七ツ池・・・ 金善池・・・・
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私もこの地方へ越してきて〇〇年になりますが、散策する中で戦争時代に作られた滑走路の跡が今も生活道路として残っているとは知りませんでした。
戦争は二度と起こってほしくないものですが、過去のことを知ることも大事かと思い調べました。
by 117k
| 2008-06-24 11:20
| 街角散策