2008年 11月 19日
長谷(初瀬)街道・・・・三本松宿
日本海側では雪も降りそうだとか・・・・もう少し秋を満喫したいですが・・・・
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今日は長谷(初瀬)街道の三本松宿を散策です・・・
江戸時代に京都・大阪・奈良からのお伊勢参りの時の宿があった所。
現在は営業しているお店は無いですが、昔ながらの風情が残っています。
昔、宿をやっていた家で「講」の看板や宿帳を拝見しました。
昔は「講」をグループで行い、順番にお参りをしていました。奥様にうかがうと長谷宿でお昼を頂くと三本松宿で泊まるそうです。
貴重な昔の写真や宿帳を拝見しました・・・・・(ぬしやの宿より)
名張への道しるべ(従是束名張ニ二里・・・・従束西萩原ニ二里)の碑・・・
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まだまだ当時からの医院や醤油製造社もあります。
この通りは昔にタイムスリップした気分です・・・・・
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by 117k
| 2008-11-19 09:43
| 街角散策
2008年 11月 17日
大野寺と宇陀川断崖の魔崖仏・・・・
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大野寺・・・・・・
このお寺は「室生寺の西の大門」と伝えられています。
白鳳9年(681年)に役の小角が開きました。その大野寺の対岸に鎌倉初期の、承元元年(1207年)の作と云われる弥勒魔崖仏が姿を見せています。
高さ15mの崖に身長11.5mの大弥勒像は日本最大級で壮観、実に見事なものです。
この像は、後鳥羽天皇の発願によって笠置山にあった天平時代(794年)の魔崖仏を模写して刻まれたと云われています。
春は寺の境内にある樹齢300年の枝垂れ桜や、秋には寺の側の銀杏の大木が紅葉していて綺麗です。
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by 117k
| 2008-11-17 09:08
| 街角散策
2008年 11月 15日
上町台地・・・・天王寺七坂・・・・
山や野の木々も色づくことでしょう・・・・
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今回は、上町台の坂を散策です。
天王寺七坂・・・・
北から・・・・真言坂・源聖寺坂・口縄坂・愛染坂・清水坂・天神坂・逢坂・・・・の順に並んでいます。その中から・・・・私の見たかった坂を取り上げてみます。
源聖寺坂・・・・・
口縄坂・・・
坂の下から眺めると道の起伏が口縄(蛇)に似ているところから、この名前がついた。七坂では一番有名な坂です。織田作之助の碑が側にあります。
愛染坂・・・
愛染さんの側の坂・・・
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番外・・・・・として「百歳(ももせ)」の階段と云う坂があります。
101段あることから百歳を超えて縁起が良いとされる坂と云われています。
前記にUPしました・・大江神社内にあります。
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坂から眺める夕陽は格別のものがあるでしょうね・・・・・117k
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by 117k
| 2008-11-15 10:02
| 街角散策
2008年 11月 13日
大阪史跡・・上町台地
夕陽ヶ丘周辺には寺町があります。その数は200とも云われています。
これは豊臣秀吉の時代に城下町整備によって寺が集められ「寺町」が出来ました。
これは信仰の為だけでなく、合戦時の防衛ラインとするねらいもあったようです。
実際、大阪夏の陣では、大阪城から四天王寺にかけての一帯は西軍と東軍の激戦地となりました。
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まず、芭蕉さんに関係のあるお寺を訪ねました。
梅旧院・・・
大阪市内で唯一の芭蕉堂があります。この中に芭蕉さんの木像が納めてあります。
鳳林寺・・・
芭蕉を尊敬し交流もあった上島鬼貫の墓があります。
大江神社・・・
芭蕉の句碑があります。四天王寺の鎮守として聖徳太子を祀った七宮の一つです。
境内に「夕陽岡」の碑が立ち、ここから眺める夕陽は絶景です。
宝国寺・・・
↓ 芭蕉の句碑があります。芭蕉十哲の一人・・志太野坡が眠る。
この他にも
円成院・・・絶筆句を刻む芭蕉句碑があります。また、桂文枝さんなどの大阪芸人の墓碑が並びます。
浄春寺・・・芭蕉百回忌に再建された反故塚があります。天文学者・・麻田剛立の墓所があります。
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その他のお寺として・・・・
勝鬘院(しょうまんいん)・・・
大阪夏祭りの幕開けを告げる愛染祭りが有名です。愛染明王を本尊とするため、一般に「あいぜんさん・愛染堂」と呼ばれています。
境内の多宝塔は豊臣秀吉が再建したもので重要文化財です。「愛染かつら」の樹や「腰痛が治る石」などがあります。
萬福寺・・・
新撰組大阪屯所が置かれ、常任20人ほどが詰めていた。まだ「拷問部屋」が残っています。
加賀・前田藩家の墓所があります。 ↓ この写真の奥の戸の所が「拷問部屋」
吉祥寺・・・
赤穂藩主浅野家の菩提寺。中央に浅野藩主・・左右に大石親子の墓が立ち、周囲を44士の墓碑が囲んでます。
大阪も歴史に残る人物が関わるお寺が多いのにはびっくりしました。
まだまだ、あるようですが・・・・・このへんで足休めです・・・・117k
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by 117k
| 2008-11-13 11:43
| 街角散策
2008年 11月 11日
県境の謎・・・・
今日は・・・・知らなかった謎の本の紹介です。
日本全国・・「県境」の謎・・・・・浅井建爾・著の中から抜粋・・・
「奈良県が地図上から消えた11年間]・・・・・・・・
奈良県が誕生したのは、廃藩置県の断行される3年前の1868(慶応4)年5月です。同年の7月には奈良府として改称されたが、翌年の7月には再び戻っている。
その後廃藩置県では、旧大和国内に15の県が乱立した。
大和国の全域を管轄する奈良県が誕生したのは、1871(明治4)年11月です。
ところが・・・・5年後の1876(明治9)年4月に奈良県は隣の堺県に併合されてしまいました。奈良県一県では財政基盤がぜい弱だというのが理由です。
だが、大和の住民たちは不便を強いられることになり、再三、上京して奈良県設置の必要性を訴えたが請願は一向に受け入れられなかった。
堺県は1881年(明治14)年2月に大阪府に併合される。
そして奈良県が大阪府から独立が認められたのは、堺県が併合されてから11年後の1887(明治20)年のことです。
なぜ、これほどまでに苦労させられたのかは色々と話があるが、何れもはっきりとしない。
理由・・・① 大和出身の有力な政治家がいなかった。
理由・・・② 幕末時に朝廷側につくか、はっきりしなかったことも原因ではと言われている。
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この頃の堺県は河内・和泉・大和の三国を管轄する大きい県でした。
堺は・・・・・・県だったのですね。
聞きなれない堺県・・・初めて知りました。謎ですね・・・・・・・117k
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by 117k
| 2008-11-11 10:14
| 興味本・・・